パンや焼き菓子でもおなじみのくるみに、9月30日の「くるみの日」があるのをご存じでしょうか。
日付の由来は、「く(9)るみ(3)はまるい(0)」という少し変わった語呂合わせ。ちょうど、くるみが収穫される秋の時期とも重なっています。
この日は、国や自治体が法令などで定めた公的な記念日ではありません。JA長野県グループなどでは、長野県東御市のくるみ愛好家たちが、くるみの魅力や用途を広く知ってもらうために提案・制定した記念日として紹介されています。
なぜ東御市がくるみの産地として知られるようになったのか。私たちが食べているのは実のどの部分なのか。さらに、日本では縄文時代からくるみが利用されていたことなど、身近な木の実には意外な歴史があります。
くるみの日が9月30日なのは「くるみは丸い」から
9月30日の「くるみの日」は、「く(9)るみ(3)はまるい(0)」という語呂合わせに由来します。
「9=く」「3=るみ」と読むだけでなく、最後の「0」を丸い形に見立てて「まるい」としているところが特徴です。
くるみは完全な球形ではなく、種類によって形も異なります。それでも、硬い殻に包まれたころんとした姿と「0」を結びつけることで、9月30日という日付になったとされています。
日付は語呂合わせだけでなく、季節にもよく合っています。くるみは秋に収穫される木の実で、9月から10月ごろは収穫期と重なります。
数字の語呂合わせと実際の収穫時期が重なっているところも、この記念日らしい特徴です。
くるみの日は東御市の愛好家が提案したとされる
JA長野県グループなどでは、東御市のくるみ愛好家たちが、くるみの食材としての魅力や用途の広さを伝えるために提案・制定した日と紹介されています。
ただし、国が定めた祝日や公的な記念日ではありません。そのため、「国が制定した9月30日の記念日」というより、くるみの産地や愛好家から生まれた記念日として捉えると分かりやすいでしょう。
「くるみの日」と深く関わっているのが、国内有数の産地である長野県東御市です。
東御市は国内を代表するくるみの産地
長野県東部にある東御市は、国内有数のくるみ産地として知られています。
東御地域では明治期からくるみの導入が進み、大正時代には栽培が本格的に広がりました。1915年(大正4年)には、大正天皇の即位御大典を記念して現在の和地区などへ苗木が配られたことが、産地形成の大きな節目になったとされています。
東御市は晴天の日が多く、雨が比較的少ない地域です。冷涼な気候や水はけのよい土地も、くるみ栽培に向いた条件とされています。
現在、市内で主に栽培されているのが信濃くるみ(シナノグルミ)です。実が大きく、殻が比較的薄いため割りやすいことでも知られています。
日本くるみ会議や東御市の近年の広報では、東御市は全国のくるみ生産量のおよそ半分を占める産地として紹介されています。生産量は年によって変動しますが、現在も国内有数のくるみ産地として知られています。
さらに、東御市ではくるみが「市の木」にも選ばれています。特産品としてだけでなく、地域を象徴する木としても親しまれてきました。
信濃くるみは異なる系統が交わって生まれた
「信濃くるみ」という名前を見ると、昔から長野県に自生していた一種類のくるみのように思えるかもしれません。
実際には、現在の信濃くるみは、日本へ伝わったカシグルミと、明治時代に欧米から導入されたペルシャグルミの系統が東御地域で交わるなかで形成された品種群とされています。
地域で交配や選抜が重ねられ、大きな実と比較的薄い殻を持つくるみが育てられてきました。現在「信濃くるみ」と呼ばれるものは、こうした長年の栽培の積み重ねによって地域へ定着したものです。
名前に「信濃」と付いていても、縄文時代から同じ品種が長野県に存在していたわけではありません。この点は、後に紹介する縄文時代のくるみとは区別しておく必要があります。
一度は減ったくるみ栽培を地域で支えてきた
東御市のくるみ栽培は、ずっと順調だったわけではありません。
日本くるみ会議によると、栽培面積は1975年ごろを境に減少しました。輸入くるみの流通が広がったことなどを背景に、市内のくるみの木も大きく減った時期があったとされています。
その後、地元の有志が産地を盛り上げようと活動し、1997年には日本くるみ会議が発足しました。現在も栽培技術の継承や、くるみの魅力を伝える取り組みが続けられています。
2025年の東御市の広報では、市内で約8,000本のくるみが栽培されていると紹介されています。
現在の産地は、栽培に向いた土地だけで生まれたものではありません。長い間くるみを育て、品種や栽培技術を受け継いできた地域の人たちによって支えられてきました。
東御市では「くるみおはぎ」も親しまれている
産地では、くるみは殻付きの実として販売されるだけではありません。
東御市では、すりつぶしたくるみを使った「くるみおはぎ」も郷土の味として紹介されています。
くるみをすり、砂糖などと合わせて餅やご飯にまぶす食べ方で、パンやケーキに入ったくるみとはまた違った味わいがあります。
現在は洋菓子やパンの材料という印象も強いくるみですが、産地では身近な食材としてさまざまな料理に使われてきました。くるみは木の実として栽培されるだけでなく、土地の食文化にも根づいています。
私たちが食べているのはくるみのどの部分?
殻付きのくるみを見ると、茶色く硬い部分そのものが果実のように見えます。しかし、木になっているときの姿は、普段店頭で見るくるみとは少し違います。
成長中のくるみは緑色の外側部分に覆われ、その内側に硬い殻があります。その殻の中にある種子の子葉が、私たちが普段食べている部分です。
殻を割ると現れる、左右に入り組んだ形の部分は「仁(じん)」とも呼ばれます。
袋入りのくるみだけを見ていると、「茶色い殻の状態で木になっている」と思いやすいものです。実際には、収穫前にはさらに外側の緑色の部分に包まれています。
くるみは食品として一般に「ナッツ」と呼ばれていますが、私たちが食べている部分だけが、そのまま木になっているわけではないのです。
縄文時代に食べられていたくるみは信濃くるみとは別
くるみと日本人の付き合いは、近代に始まったものではありません。
日本各地の縄文時代の遺跡から、くるみが利用されていた痕跡が見つかっています。
長野県松本市の葦原遺跡では、縄文時代中期の住居跡から炭化したくるみが出土しています。東御市でも、縄文時代の住居跡からくるみの殻が見つかっていることが紹介されています。
ただし、縄文時代に食べられていたくるみと、現在東御市で栽培されている信濃くるみは同じものではありません。
日本にはオニグルミやヒメグルミなど在来のくるみがあり、縄文時代から食料として利用されてきました。一方、現在の信濃くるみは、後の時代に日本へ伝わった系統が東御地域で交わり、栽培されるなかで形成されたものです。
縄文時代から続く日本でのくるみ利用と、後世に始まった信濃くるみの栽培は、それぞれ別の歴史です。
種類は違っていても、日本では縄文時代からくるみが食料として利用されていたことが、遺跡の出土品から分かっています。
現在ではお菓子やパンに入っている身近な食材ですが、その利用の歴史は想像以上に古いものです。
「胡桃」という漢字はどこから来た?
くるみは漢字で「胡桃」と書きます。
「桃」という字が入っていますが、普段食べる桃と同じ仲間という意味ではありません。くるみはクルミ科の植物です。
「胡桃」という名称については、中国で西方の地域を表した「胡」と「桃」を組み合わせた言葉と説明されることがあります。
日本語の「くるみ」という呼び名については、「呉実(くれみ)」などに由来するとする説も伝わっています。ただし、語源は一つの説に定まっているわけではありません。
普段はひらがなやカタカナで書くことの多い「くるみ」ですが、漢字や名前の由来をたどると、植物が地域を越えて伝わってきた歴史の一端もうかがえます。
まとめ
9月30日の「くるみの日」は、「く(9)るみ(3)はまるい(0)」という語呂合わせと、くるみが収穫される秋の時期にちなんだ記念日です。
国や自治体が定めた公的な記念日ではありませんが、JA長野県グループなどでは、長野県東御市のくるみ愛好家たちが提案・制定した日として紹介されています。
東御市は現在も国内有数のくるみ産地です。そこで栽培される信濃くるみは、異なる系統のくるみが地域で交わり、長年育てられるなかで形成されました。
一方、日本ではそれよりはるか昔の縄文時代から、オニグルミなど在来のくるみが利用されています。
普段何気なく食べているくるみにも、縄文時代から続く利用の歴史や、産地で育まれてきた品種と食文化があります。9月30日の語呂合わせを入り口に、その背景まで知ると、いつものくるみが少し違って見えるかもしれません。
参考情報
- JA長野県グループ「長野県のおいしい食べ方」『新信州暦 赤とんぼを見る機会が増えました』
- 東御市『市報とうみ 2025年11月号』「特集 とうみのくるみのひみつ!」
- 東御市「東御市のあらまし」
- 東御市・日本くるみ会議「信濃くるみの栽培指針」
- 松本市「葦原遺跡 1980年(昭和55年)」
- 公益財団法人中央果実協会「特産果樹 クルミ」
- 日本くるみ会議「日本くるみ会議について」「活動紹介」
