「タコには脳が9個ある」という話を聞いたことはないでしょうか。中央に1個、8本の腕にも1個ずつあるなら、たしかに合計は9個です。
ただし、タコの体内に独立した脳が9個並んでいるわけではありません。タコには中枢となる脳があり、8本の腕それぞれにも大規模な神経系が広がっています。中央の脳と8本の腕を「1+8」に見立てて、「9個の脳」と説明されることがあるのです。これは解剖学上の脳を9個数えたものではありません。
タコでは、神経細胞の多くが頭部だけに集中せず8本の腕へ広がっています。その体のつくりを知ると、「9個の脳」という言葉が何を表しているのかが見えてきます。
実際のタコは中央の脳と8本の腕に神経系を持つ
タコの神経系は、頭部だけで完結していません。中枢となる脳と左右の大きな視葉があり、さらに8本の腕にはそれぞれ軸神経索と呼ばれる大きな神経組織が伸びています。これらを合わせると、タコの神経系には5億個近いニューロンがあると報告されています。
そのため、1本の腕の中に人間の脳のような器官が1個ずつ入っているわけではありません。「9個の脳」は学術上の正式な脳の数ではなく、中央の脳とは別に8本の腕にも大規模な神経系があることを表す比喩です。
神経細胞の多くが8本の腕に広がっている
タコの神経系で特に目を引くのが、ニューロンの分布です。
代表的な推定では、約5億個とされるニューロンのうち、およそ60〜70%にあたる3億〜3億5千万個が腕側に分布しています。中央側よりも、8本の腕に広がるニューロンのほうが多いことになります。
これは、すべての種類や個体のタコが必ず同じ数を持つという意味ではありません。研究で使われる代表的な推定値ですが、タコでは神経細胞のかなりの割合が腕側に分布しているという点は、神経系を知るうえで大切な手がかりです。
なぜ8本の腕にも「脳がある」と言われる?
タコの腕には、頭部から伸びた細い神経が一本通っているだけではありません。
各腕の中心には軸神経索(Axial Nerve Cord:腕の中心を走る大きな神経組織)があり、その周囲にも複数の神経索があります。さらに吸盤ごとにも神経節が備わっています。2025年の研究では、軸神経索の神経細胞が腕に沿って区切られるように配置され、腕や吸盤の感覚・運動制御に関わる構造を作っていることが示されました。
タコの腕には硬い骨格がありません。曲げる、伸ばす、縮める、ひねるといった変形をさまざまな場所で組み合わせることができ、2020年の研究では8本すべての腕でこれら4種類の変形が観察されています。
こうした柔軟な腕を細かく動かすためにも、腕そのものに発達した神経系があることが役立っています。
吸盤は触るだけでなく化学物質も感じ取る
タコの吸盤は、物に吸い付くためだけの器官ではありません。2020年の研究では、タコの吸盤に関わる細胞に頭足類特有の化学触覚受容体があり、触れた物質の化学的な特徴を検出する仕組みが示されました。
つまりタコは、腕で物に触れながら化学的な情報も受け取っています。多数の吸盤から入る情報を扱うため、吸盤の神経節と腕の軸神経索を含む神経系が発達しています。
腕の神経回路では、こうした感覚や運動に関わる情報の一部を局所的に扱えます。一般向けに腕を「小さな脳」のように表現する場合がありますが、腕そのものが独立した脳という意味ではありません。
8本の腕はそれぞれ勝手に動いている?
腕側に数億個もの神経細胞があるなら、「8本の腕がそれぞれ別々に考えているのでは?」とも思えます。
実際には、腕で局所的な情報処理ができても、中央の神経系から完全に独立しているわけではありません。
2020年のマダコを使った学習実験では、タコが腕の位置に関する情報や触覚による手がかりを利用して腕の動きを学習できることが示されました。研究者は、この結果から腕から得られる末梢の感覚情報が中枢による腕の制御に使われているとしています。
腕同士にもつながりがあります。2022年の研究では、腕の神経索がほかの腕へつながる経路が詳しく調べられ、頭部の脳だけを介さない腕間の神経信号に使われる可能性が示されました。
そのため、タコは中央から8本の腕へ細かな命令を一方的に送り続けているわけでも、腕が完全に別々に活動しているわけでもありません。中央と腕に広がった神経系がつながりながら、柔軟な体を動かしています。
さらにタコの中央の脳は、脊椎動物とは異なり食道を囲むように配置されています。8本の腕へ広がる神経系だけでなく、中枢側の配置も独特です。
イカにもタコのような腕の神経系がある?
タコと同じ頭足類であるイカにも、腕や触腕へ広がる神経系があります。腕に大きな神経組織を持っているのは、タコだけではありません。
ただし、タコとイカでは腕のつくりが異なります。タコは8本すべてが吸盤を備えた腕ですが、イカには8本の腕に加えて2本の長い触腕があります。
2025年の比較研究では、研究対象となったイカの一種(Doryteuthis pealeii)でも、腕と触腕に軸神経索が確認されています。通常の腕と、触腕の先端にある吸盤が集まる部分では、神経細胞が腕に沿って区切られるような配置が見られました。一方、吸盤の少ない触腕の柄では、同じ配置は明瞭ではありませんでした。
この比較からも、タコだけが腕に神経系を持っているわけではないことが分かります。ただし、腕や触腕の形、使い方、神経組織の配置は同じではありません。研究では、吸盤の並ぶ柔軟な腕と軸神経索の区切られた構造に強い関連がある可能性が示されています。
したがって「タコは9個、イカは○個」と脳の数で比べるものではありません。どちらも腕の神経組織そのものが独立した脳ではないためです。
Q&A
まとめ
「タコには脳が9個ある」という話は、文字どおりの意味ではありません。タコには中枢となる脳があり、8本の腕にも大規模な神経系が広がっています。
代表的な推定では、タコのニューロンの60〜70%ほどが腕側に分布します。腕では吸盤から入る感覚情報などの一部を局所的に扱えますが、中央の神経系ともつながっており、8本の腕がそれぞれ独立した脳として活動しているわけではありません。
同じ頭足類のイカにも腕や触腕に発達した神経系があります。タコの「9個の脳」という言葉の奥にあるのは、中央と8本の腕へ神経細胞を大きく分散させながら全身を動かす、独特な神経系のつくりなのです。
参考情報
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- van Giesen, L., Kilian, P. B., Allard, C. A. H., & Bellono, N. W. (2020). Molecular Basis of Chemotactile Sensation in Octopus.
- Gutnick, T., Zullo, L., Hochner, B., & Kuba, M. J. (2020). Use of Peripheral Sensory Information for Central Nervous Control of Arm Movement by Octopus vulgaris.
- Kennedy, E. B. L., Buresch, K. C., Boinapally, P., & Hanlon, R. T. (2020). Octopus arms exhibit exceptional flexibility.
- Kuuspalu, A., et al. (2022). Multiple nerve cords connect the arms of octopuses, providing alternative paths for inter-arm signaling.
- Winters-Bostwick, G. C., et al. (2024). Three-dimensional molecular atlas highlights spatial and neurochemical complexity in the axial nerve cord of octopus arms.
- Olson, C. S., Schulz, N. G., & Ragsdale, C. W. (2025). Neuronal segmentation in cephalopod arms.
