9月15日は「関ケ原合戦の日」です。1600年、当時の暦で慶長5年9月15日に、現在の岐阜県関ケ原町を主戦場として「関ケ原の戦い」が行われました。この歴史上の日付にちなみ、関ケ原観光協会が2022年に9月15日を「関ケ原合戦の日」と定め、日本記念日協会に登録しています。
ただし、当時の9月15日を現在の暦に換算すると1600年10月21日です。さらに「天下分け目」と呼ばれる戦いも、単純な徳川家対豊臣家の戦争だったわけではありません。
9月15日という日付の意味から、関ケ原の戦いがその後の日本に与えた影響まで見ていきましょう。
9月15日の「関ケ原合戦の日」とは?
「関ケ原合戦の日」は、関ケ原の戦いが行われた慶長5年9月15日にちなむ記念日です。
関ケ原観光協会が2022年に制定し、日本記念日協会へ登録しました。関ケ原の戦いが起きた日を広く伝え、古戦場や地域の歴史に触れる機会につなげる日です。
記念日として登録されたのは2022年ですが、関ケ原で9月15日が大切にされるようになったのはそれより前です。
地域では9月15日に法螺貝を鳴らしたり、岡山烽火場で「のろし」を再現したりして、合戦の日をしのぶ取り組みが続けられてきました。
つまり、2022年に新しく9月15日が選ばれたのではなく、もともと歴史上の合戦日として受け継がれてきた日付が「関ケ原合戦の日」という記念日になったのです。
関ケ原の戦いは9月15日?10月21日?
関ケ原の戦いの日付には「9月15日」と「10月21日」の二つが登場します。
どちらか一方が間違っているわけではありません。
戦いが行われたのは、当時の暦で慶長5年9月15日です。これを現在の暦(グレゴリオ暦)に換算すると、1600年10月21日にあたります。
「関ケ原合戦の日」は、新暦換算した10月21日ではなく、歴史上の記録に残る9月15日を記念日の日付として採用しています。
10月21日も関ケ原と深く結び付いている
現在の暦に換算した10月21日も、関ケ原にとって意味のある日です。
岐阜関ケ原古戦場記念館が開館したのは2020年10月21日。この日は慶長5年9月15日の関ケ原の戦いを、現在の暦に換算した日付にあたります。
そのため、
9月15日=当時の暦で記録された合戦の日
10月21日=現在の暦に換算した同じ合戦の日
という関係になります。
二つの日付は別々の戦いを表しているのではなく、同じ歴史上の一日を異なる暦で表したものです。
関ケ原合戦の日に知っておきたい戦いの背景
関ケ原の戦いは、豊臣秀吉が亡くなった後の政権をめぐる対立の中で起こりました。
現在は徳川家康を中心とする勢力を「東軍」、石田三成らの勢力を「西軍」と呼ぶのが一般的です。ただし、合戦当時から両陣営が東軍・西軍と呼ばれていたわけではありません。
また、「徳川家と豊臣家が戦った」と考えるだけでは当時の状況を十分に表せません。
東軍には福島正則をはじめ、豊臣秀吉に仕えてきた武将も加わっています。西軍では五大老の一人だった毛利輝元が総大将となり、石田三成が中心人物の一人として諸大名に働きかけました。
豊臣政権をめぐる対立を背景に、多くの大名や武将がそれぞれの立場から東西に分かれた戦いだったのです。
9月15日の朝になると関ケ原一帯で戦闘が始まりました。東軍には福島正則、井伊直政、黒田長政ら、西軍には石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継らが布陣していました。
小早川秀秋の動きが戦況を変えた
関ケ原の戦いでよく知られる人物の一人が、小早川秀秋(こばやかわひであき)です。
小早川秀秋は松尾山に大軍を率いて布陣していました。その後、大谷吉継の部隊へ攻撃を始めると、戦況は東軍側へ大きく傾いていきます。
小早川隊に続いて西軍側から東軍側へ攻撃する部隊も現れ、西軍は次第に崩れていきました。
小早川秀秋がいつ東軍側につく意思を固めたのかは、はっきりしていません。
徳川家康が動かない小早川隊へ鉄砲を撃たせ、決断を迫ったという「問い鉄砲」の逸話も有名ですが、一説として伝えられている話です。
関ケ原の決戦は半日ほどで大勢が決した
「天下分け目の戦い」と聞くと、何日も続く大規模な戦闘を想像するかもしれません。
実際には、関ケ原を主戦場とした9月15日の決戦は朝に始まり、半日ほどで大勢が決したとされています。
ただし、争いそのものが半日だけだったわけではありません。本戦以前から各地で城をめぐる攻防や大名への働きかけがあり、関ケ原本戦の後にも戦いは残っていました。
各地で争いが続く中、9月15日の関ケ原で東西の大軍がぶつかる大規模な決戦が行われたのです。
関ケ原は東西を結ぶ交通の要所だった
決戦の舞台となった関ケ原は、古くから東日本と西日本を結ぶ交通の要所でした。
現在の岐阜県西部にあり、周囲の山地の間を東西方向の道が通っています。古代の東山道や、のちの中山道につながる交通路に加え、北陸方面や伊勢方面へ向かう道とも結び付く地域でした。
人の往来だけでなく、軍勢が移動するうえでも重要な場所です。こうした立地も、関ケ原が決戦の舞台となった背景の一つでした。
現在も関ケ原には、開戦地や決戦地、徳川家康最後陣地、石田三成陣跡、岡山烽火場など、合戦に関係する場所が数多く残っています。
なぜ関ケ原の戦いは「天下分け目」と呼ばれるの?
関ケ原の戦いが「天下分け目」と呼ばれるのは、大勢の武将や兵が戦ったからだけではありません。
東軍の勝利によって徳川家康の政治的な立場が大きく強まり、その後の徳川政権成立へつながる転換点となったためです。
ただし、1600年9月15日に関ケ原で勝利した瞬間から江戸幕府が始まったわけではありません。
関ケ原の戦後、全国の大名の領地は大きく見直されました。東軍側で功績を挙げた大名には領地が増えた者がいる一方、西軍側では領地を減らされたり失ったりした大名もいます。
こうした戦後処理を経て徳川家康の影響力はさらに強まり、1603年には征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。
それでも豊臣家は存続しており、豊臣秀頼は大坂城にいました。その後、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣を経て豊臣家が滅び、徳川政権の支配がさらに固まっていきます。
関ケ原の戦いだけですべてが決まったわけではありませんが、徳川政権成立へ向かう流れを大きく進めたことが、「天下分け目」と呼ばれる理由につながっています。
Q&A
まとめ
9月15日の「関ケ原合戦の日」は、慶長5年9月15日に行われた関ケ原の戦いにちなみ、関ケ原観光協会が2022年に定めた記念日です。現在の暦へ換算すると1600年10月21日にあたり、同じ合戦に二つの日付が登場します。
関ケ原での決戦は半日ほどで大勢が決しましたが、その背景には豊臣秀吉の死後に生じた政権をめぐる対立がありました。東軍の勝利によって徳川家康の政治的な立場が強まり、1603年の江戸幕府成立へとつながっていきます。
9月15日は、関ケ原で起きた一日の戦いだけでなく、その後の日本の政治が大きく動いていく転換点を振り返る日でもあります。
参考情報
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「9月15日(木)関ケ原合戦の日に特別武将印を配布します」
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「『関ヶ原の戦い』が起きた年月日を知りたい。」
- 国立公文書館「関ヶ原の戦い|徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」
- 岐阜関ケ原古戦場記念館「徳川家康コース」
- 関ケ原町「関ケ原町景観計画」
- 文化庁 国指定文化財等データベース「関ヶ原古戦場」
