小説を読んでいるうちに周囲の音が気にならなくなったり、映画が終わった瞬間に現実へ戻ってきたように感じたりすることがあります。こうした物語の世界へ入り込んだような体験を捉える概念が、ナラティブ・トランスポーテーションです。
物語に引き込まれているときは、注意や感情、頭の中に浮かぶイメージが物語へ向かいます。現実への注意そのものがなくなるのではなく、周囲から物語へ注意の向き先が移っている状態です。
強く引き込まれた物語は、楽しさや感動だけでなく、その後に残る印象や考え方と結び付く場合もあります。ただし、夢中になったからといって、内容を必ず信じたり考え方が変わったりするわけではありません。
ナラティブ・トランスポーテーションとは物語世界へ入り込む感覚
「ナラティブ(narrative)」は物語や語り、「トランスポーテーション(transportation)」は移動や輸送を意味します。ナラティブ・トランスポーテーションという名前には、物語によって別の世界へ運ばれるような体験というイメージがあります。
この考え方の土台を示したのが、心理学者のリチャード・J・ゲリッグ(Richard J. Gerrig)です。1993年の著書『Experiencing Narrative Worlds』で、物語を体験することを旅行になぞらえ、読者が物語世界へ入り、そこから現実へ戻ってくるという考え方を論じました。
その後、メラニー・C・グリーン(Melanie C. Green)とティモシー・C・ブロック(Timothy C. Brock)が2000年の研究で、ナラティブ・トランスポーテーションの程度を測る尺度を開発しました。
小説を読むとき、文字だけを追っているとは限りません。登場人物の姿や景色を思い浮かべ、先の展開を気にし、出来事によって感情を動かされながら読み続けることがあります。こうした注意や感情、イメージを含む体験が、ナラティブ・トランスポーテーションを考えるうえで重要になります。
物語への「入り込み具合」はどうやって測る?
ナラティブ・トランスポーテーションは、身長や体温のように直接測れるものではありません。そのため研究では、物語を体験した人自身の回答から入り込みの程度を調べます。
物語へどれくらい注意が向いていたか、場面を頭の中で思い描けたかなど、複数の質問への回答を使ってトランスポーテーションの程度を捉えます。
「夢中になったか」という一つの感想だけで決めるのではなく、物語へ向けられた注意や心的イメージなど、複数の反応から入り込み方を見る方法が使われてきました。
小説や映画だけでなく実話でも起こりうる
ナラティブ・トランスポーテーションというと、小説や映画などのフィクションを思い浮かべやすいですが、研究対象となる物語は架空の作品だけではありません。
映画やテレビ番組、音声で語られるストーリーだけでなく、実際の出来事や体験談も、人物や出来事の流れを持った物語として伝えられれば研究の対象になり得ます。
作り話か実話かという区分だけで、トランスポーテーションの有無が決まるわけではありません。
グリーンとブロックの2000年の研究では、物語を事実として示すかフィクションとして示すかという条件も比べられました。その実験では、この違いだけでトランスポーテーションや物語と一致する信念に大きな差が生じたわけではありませんでした。
これは、人がフィクションを事実だと思い込むという意味ではありません。少なくともその実験では、「これはフィクションだ」と示されたことだけで、物語への入り込みが消えたわけではなかったという結果です。
なぜ物語に引き込まれると周囲を忘れたように感じる?
ナラティブ・トランスポーテーションが高まっているときは、意識の中心が物語へ向いています。
現実世界への注意がなくなるのではなく、登場人物や出来事、次に何が起こるのかといった情報へ多くの注意が向けられます。「声をかけられるまで気付かなかった」「少し読むつもりがずいぶん時間が過ぎていた」といった体験は、物語へ注意が強く向いている状態をイメージする例になります。
頭の中で場面を思い描く
文章には映像そのものがありません。それでも「雨の降る夜の駅」「薄暗い森」「緊張した表情」と書かれていれば、読者は自分なりの場面を頭の中に浮かべられます。
こうした心的イメージ(頭の中に浮かぶ場面や映像)も、物語への入り込みを捉える要素です。同じ文章を読んでも、思い浮かべる景色や人物の姿は人によって異なります。
登場人物や出来事によって感情が動く
物語に入り込むと、自分自身には何も起きていないのに、登場人物の成功を喜んだり、危機的な展開で緊張したりすることがあります。
出来事の意味を理解するだけでなく、そこへ感情が伴うことも物語体験の一部です。
ただ、特定の登場人物へ強く共感しなければトランスポーテーションが起こらないわけではありません。人物よりも世界観や謎、物語の展開そのものに夢中になる場合もあります。
物語に入り込むと考え方にも影響する?
ナラティブ・トランスポーテーションが研究されてきた理由の一つが、物語への没入とその後の考え方や印象との関係です。
グリーンとブロックの2000年の研究では、物語に強く引き込まれた参加者ほど、物語の内容と一致する方向の信念を示したり、登場人物を好意的に評価したりする傾向が報告されました。その後も、物語への没入と説得や考え方への影響について研究が続いています。
とはいえ、物語に引き込まれれば考え方が必ず変わるわけではありません。受け手がもともと持っている知識や価値観、作品への関心、その物語をどのように受け取ったかなども影響します。
物語に引き込まれると反論が減ることもある
物語を追っている最中は、「この主張は正しいか」と一文ずつ検討するより、登場人物や出来事の流れを追うほうへ注意が向きやすくなります。
ナラティブ・トランスポーテーションの研究では、こうした没入が、内容に対する反論の少なさと結び付く可能性も検討されてきました。
ただし、物語を楽しむと批判的に考えられなくなるという意味ではありません。 物語に夢中になりながら、その内容へ疑問を持つこともできます。
ナラティブ・トランスポーテーションは、物語が人の印象や考え方に影響する過程を考える一つの要素です。物語に引き込まれれば、相手の考えを自由に変えられるという仕組みではありません。
キャラクターへの同一化とは同じもの?
物語への没入と混同されやすいものに、キャラクターへの同一化があります。日常的に「感情移入」と呼ばれる体験と重なる部分もありますが、ナラティブ・トランスポーテーションとは同じ概念ではありません。
ナラティブ・トランスポーテーションは、人物だけでなく場所や出来事、展開まで含めた物語世界全体への入り込みを捉えます。
それに対してキャラクターへの同一化は、特定の登場人物の視点や目標、感情を自分に近いものとして体験する側面が中心です。
たとえば推理小説で謎が解けていく過程に夢中になっていても、主人公へ強く感情移入しているとは限りません。それでも作品世界には十分入り込んでいる場合があります。
「好きなキャラクターがいること」と「物語そのものに引き込まれること」は一緒に起こることもありますが、分けて考えられる体験です。
なぜ同じ物語でも引き込まれ方が違う?
評判のよい作品だからといって、すべての人が同じように物語へ入り込むわけではありません。
作品の内容だけでなく、受け手の関心や経験、そのときの環境などもトランスポーテーションの程度に影響します。
自分が関心を持っている題材なら、人物や場面を追いやすいかもしれません。反対に、周囲が騒がしい、途中で何度も中断される、内容を理解するために大きな負担がかかるといった状況では、物語へ注意を向け続けにくくなります。
同じ映画を見て「時間を忘れた」という人と「あまり入り込めなかった」という人がいるのも不思議ではありません。物語そのものだけでなく、受け手やそのときの状況も、物語への入り込み方に影響します。
Q&A
まとめ
ナラティブ・トランスポーテーションとは、注意や感情、頭の中のイメージが物語へ向かい、その世界に入り込んだように感じる体験を捉える概念です。
1993年にリチャード・J・ゲリッグが物語体験を「移動」にたとえて論じ、その後メラニー・C・グリーンとティモシー・C・ブロックらによって研究が発展しました。対象は小説や映画などのフィクションだけではなく、実際の出来事を物語として伝える場合にも広がっています。
時間を忘れて小説を読み続けたり、映画が終わった瞬間に周囲へ意識が戻ったように感じたりする体験は、「物語によって別の世界へ運ばれる」というナラティブ・トランスポーテーションの名前が表す感覚と重なっています。
参考情報
- Yale University Press「Experiencing Narrative Worlds: On the Psychological Activities of Reading」
- Green, M. C. & Brock, T. C.「The role of transportation in the persuasiveness of public narratives」
- Cohen, J.「Defining Identification: A Theoretical Look at the Identification of Audiences With Media Characters」
- Thomas, V. L. & Grigsby, J. L.「Narrative transportation: A systematic literature review and future research agenda」
