戦国時代の騎馬隊は本当にいた?武田騎馬隊と戦い方の実像

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戦国時代の合戦というと、甲冑を身につけた武者たちが馬を並べ、土煙を上げながら敵陣へ突撃する光景を思い浮かべる人も多いでしょう。特に有名なのが、武田信玄や武田勝頼と結び付けて語られる「武田騎馬隊」です。

ただし、当時の戦場に騎馬武者がいたことと、映画やドラマで見るような騎兵だけの大部隊が整然と一斉突撃していたことは、同じ話ではありません。

戦国時代の馬は移動だけでなく戦闘にも使われ、騎乗したまま戦う場面もあれば、下馬する場面もありました。また、映像作品では戦況や軍勢の迫力を一目で伝えるため、騎馬武者を大きな集団として描くことがあります。画面に映る隊形や突撃方法が、そのまま当時の戦場を再現しているとは限りません。

戦国時代の騎馬武者は実際にどのように戦っていたのでしょうか。武田氏と馬の関係や、長篠・設楽原の戦いで語られてきた騎馬突撃のイメージとあわせてたどります。

目次

戦国時代に騎馬隊は本当に存在した?

戦国時代に騎馬武者が存在したことは、史料から確認できます。

ここで注意したいのは、「騎馬隊」という言葉から何を想像するかです。

現在では、騎馬兵だけが一つの部隊を作り、隊列を整えて敵へ突撃する姿を想像しやすくなっています。しかし、戦国大名の軍勢は騎馬武者だけで構成されていたわけではありません。

軍勢には騎馬武者のほか、槍・弓・鉄砲などを扱う徒歩の兵も含まれていました。騎馬と徒歩の兵が入り交じる軍勢だったため、近代的な騎兵部隊の姿をそのまま戦国時代に当てはめると、当時の軍勢とは違ったものになってしまいます。

武田氏についても、騎馬武者そのものが存在しなかったわけではありません。

問題になるのは、武田軍に騎馬武者がいたかではなく、騎馬兵だけを大量に集めた独立した「騎馬軍団」が存在し、密集した隊形で組織的な突撃を行っていたのかという点です。

武田氏の軍制については、騎馬だけを独立させた部隊の存在に慎重な見方がある一方、軍役関係の史料から騎馬の割合を調べ、他の戦国大名と比較する研究も行われています。

そのため、「武田騎馬隊はすべて後世の作り話だった」とするのも、「巨大な騎兵軍団が常に一斉突撃していた」とするのも、どちらも当時の姿を単純化しすぎます。

騎馬武者は馬に乗ったまま戦った?

騎馬武者という名前からは、戦闘中ずっと馬上にいたようにも感じられます。しかし、馬は戦場への移動だけに使われたわけでも、逆に戦闘前には必ず降りるための乗り物だったわけでもありません。

馬上で戦う例がある一方、軍記などには騎馬武者が下馬する場面も見られます。戦場では常に馬上にいたわけではなく、徒歩で戦う場合もありました。

「騎馬武者=戦闘中は絶対に馬から降りない兵士」と考えると、実際の姿から離れてしまいます。

また、中世から戦国期にかけては、徒歩による集団戦の重要性も高まっていきました。

こうした戦い方の変化は、武具にも表れています。日本の鎧は、馬上での戦いに適した「大鎧」から、徒歩での集団戦にも対応しやすい「胴丸」「腹巻」へと変化し、鉄砲伝来後には「当世具足」が広がっていきました。

もちろん、鎧の変化だけで騎馬武者の戦い方すべてを説明できるわけではありません。ただ、戦国時代の合戦が騎馬だけを中心としたものではなかったことを知る材料の一つになります。

戦国時代の馬は現在の競走馬より小さかった

映像作品との違いが分かりやすいのが、馬の体格です。

戦国時代の馬は、現在の競走馬などから想像する馬より小柄だったと考えられています。発掘された馬骨などから復元すると、現在の区分では「ポニー」と呼ばれる大きさに当たる馬もいました。

また、重い甲冑を身につけた武士を乗せたまま、いつでも長距離を全力疾走できたわけではありません。

ただし、ここでいう「ポニー」は小型の馬を示す区分です。小さいから非力で、戦闘には使えなかったという意味ではありません。

当時の馬は武士を乗せ、移動や戦闘などに実際に利用されていました。現代の大型の競走馬を基準にすると、戦国時代の軍馬を必要以上に頼りない存在として捉えてしまう可能性があります。

武田氏と馬はなぜ強く結び付けて語られる?

戦国時代の騎馬と聞いて、武田信玄を思い浮かべる人は少なくありません。この背景には、武田氏の本拠地だった甲斐国と馬との古い関係があります。

現在の山梨県にあたる甲斐国では、古代から馬の生産が行われていました。

奈良時代には朝廷へ馬を送るための「御牧(みまき)」が開かれ、その後も甲斐から馬が献上されました。甲斐国には穂坂牧・真衣野牧・柏前牧という3つの御牧があり、馬の産地として朝廷との関わりを持っていました。

武田氏の軍勢にも、騎馬武者がいたことが史料から分かっています。

ただし、甲斐が古くから馬と関係の深い地域だったことだけを根拠に、武田軍だけが他の戦国大名とはまったく異なる騎兵専門軍団を持っていたとはいえません。

武田軍で騎馬がどの程度使われていたのかについては、軍役関係の史料をもとに他大名との比較も行われています。「武田氏といえば大規模な騎馬軍団」という従来のイメージについても、史料をもとに見直されてきました。

また、戦国時代の合戦は、当時の文書だけでなく、後世の軍記物語や合戦図屏風などにも描かれてきました。こうした作品は、合戦が後の時代にどのように語られ、受け止められてきたのかを知る資料にもなります。

現在知られている「武田騎馬軍団」の姿については、史料から確認できる騎馬武者と、後世の軍記や絵画に描かれた合戦像が必ずしも同じではない点も押さえておきたいところです。

長篠の戦いで武田騎馬隊は鉄砲に負けた?

武田騎馬隊のイメージと特に強く結び付いているのが、1575年(天正3年)の長篠・設楽原の戦いです。

よく知られている説明では、武田勝頼の騎馬軍団が織田信長・徳川家康の陣へ突撃し、馬防柵の後ろに並んだ大量の鉄砲によって壊滅したとされます。

実際に、織田・徳川連合軍が設楽原で馬防柵を築き、鉄砲を使用したことは確認されています。現在の愛知県新城市にある設楽原古戦場にも、馬防柵が再現されています。

ただ、実際の戦場を考える際には地形も重要です。

設楽原では、武田軍と織田・徳川側の間に連吾川があり、その周辺には水田が広がっていました。武田軍はこうした場所を越えて連合軍側へ接近し、その先には馬防柵が設けられていました。

つまり、馬が何の障害もなく長距離を一直線に駆け抜けられる場所だけで戦われたわけではありません。

連吾川、水田、馬防柵、鉄砲、徒歩兵を含む双方の軍勢など、いくつもの条件が重なった戦場でした。「広い平原を武田の騎馬軍団が一気に疾走し、それを鉄砲隊が正面から撃ち倒した」という映像だけでは、設楽原の地形や軍勢の構成までは伝わりません。

有名な「三段撃ち」は実際に行われた?

長篠の戦いでは、「3000挺の鉄砲を3列に分け、一列ずつ交代しながら連続射撃した」という三段撃ちもよく知られています。

ただし、信長の事績を記した『信長公記』には、現在よく知られる三列が規則正しく入れ替わって射撃する方法を具体的に記した箇所は見当たらないとされています。

そのため、後世に広まった形の三段撃ちが実際に行われたのかどうかは、長く議論されてきたテーマです。

これは、「長篠では鉄砲が使われなかった」という意味ではありません。鉄砲が戦いで使用されたことと、三列が交代しながら連続射撃する方法がそのまま行われたかどうかは別の問題です。

長篠・設楽原の戦いを「武田騎馬隊対信長の三段撃ち」だけで捉えると、馬防柵や地形、徒歩兵を含む双方の軍勢といった重要な要素が見えにくくなります。

「騎馬隊」という言葉から想像する姿とは少し違う

戦国時代の「騎馬隊」を考えるときに注意したいのは、後世の騎兵部隊と同じ姿をそのまま重ねないことです。

騎馬武者は実際に存在しましたが、軍勢には徒歩で戦う兵も多く含まれていました。馬上で戦うこともあれば、下馬する場面もあり、馬は移動にも利用されました。

つまり、「騎馬隊が存在したか」という問いだけでは、戦国時代の馬の使われ方すべてを説明できません。

何人の武者が馬に乗っていたのか、騎馬武者と徒歩兵がどのように組み合わされていたのか、戦場の地形が馬の動きにどう影響したのかまで考えることで、当時の軍勢をより具体的に捉えられます。

史料や戦場の地形までたどると、映像作品でおなじみの勇壮な騎馬戦とは違う姿も浮かびます。

まとめ

戦国時代には騎馬武者が存在し、馬は移動だけでなく戦闘などにも利用されていました。ただし、騎馬兵だけの大軍団が常に密集して一斉突撃していたというイメージを、そのまま当時の一般的な戦い方とすることはできません。

有名な武田騎馬隊も、騎馬武者そのものが架空だったわけではありません。甲斐には古くから馬と関わる歴史があり、武田軍にも騎馬武者がいました。一方、大規模な独立騎馬軍団の編成や密集突撃については、現在もさまざまな検討が行われています。

長篠・設楽原の戦いも、鉄砲だけでなく馬防柵、連吾川、水田、軍勢の構成まで含めて考える必要があります。騎馬武者が軍勢の中でどのように使われていたのかまで目を向けると、戦国時代の騎馬戦をより具体的に捉えられます。

参考情報

  • 国立歴史民俗博物館「『天下統一と城』展示構成」
  • 東京国立博物館「刀剣・武士の装いツアー WEB新聞」
  • 山梨県立考古博物館「新年干支展─午─」
  • 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「戦国時代、甲斐の武田軍は騎馬軍団を組織していたと言われるが、どの様な軍団であったのか?」
  • 東京大学史料編纂所「関連史料の収集による長篠合戦の立体的復元」
  • 新城市「長篠・設楽原の戦い」「馬防柵」

この記事を書いた人

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