万里の長城はなぜ造られた?一本ではない壁の意外な歴史と役割

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山の尾根をどこまでも進む石造りの壁。万里の長城には、一人の皇帝が命じて完成させた巨大建築という印象があります。

実際には、異なる時代に造られた壁、砦、関所、のろし台などが組み合わさった広大な防衛施設です。歴代の王朝が築いた壁や枝分かれした区間、関連施設を含めると、総延長は2万キロメートルを超えます。

観光写真でよく見かけるレンガや石造りの区間も、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の時代より千年以上後に建設・改修されたものが中心です。

長城は敵の侵入を妨げるだけでなく、周辺の監視や情報伝達、人や物資の移動管理にも使われました。一本の巨大な壁という印象から離れると、複数の王朝が残した防衛網としての姿が見えてきます。


目次

万里の長城は一本につながった壁ではない

万里の長城という名前からは、中国を東西に横切る一本の壁を想像しがちです。

しかし、長城には異なる王朝が別々の時代に築いた区間が含まれています。複数の壁が並ぶ場所や途中で途切れている場所、長い年月によって地表から見分けにくくなった場所もあります。

壁のほかにも、兵士が守る砦、軍事上重要な道に設けられた関所、周辺を見張る監視塔、危険を知らせるのろし台などが造られました。山や川といった地形を利用し、通過されやすい場所へ壁や施設を加えた地域もあります。

万里の長城は、一つの建造物が途切れず続いているのではなく、各地の軍事施設を結んだ大規模な防衛網です。

「万里」は非常に遠い距離を表す言葉としても使われます。長城全体の正確な実測値を、そのまま示した名称ではありません。


始皇帝が最初からすべて造ったのではない

万里の長城を造った人物として有名なのが、紀元前3世紀に中国を統一した秦の始皇帝です。

始皇帝が統一する以前の中国には複数の国があり、それぞれが敵国や北方の勢力に備えて防壁を築いていました。始皇帝は、それ以前に造られていた壁を利用しながら、接続や拡張を進めました。

秦の後も、漢をはじめとする王朝が建設や修復を続けています。王朝ごとに国境や警戒する相手が変わったため、壁が築かれた場所も同じではありませんでした。

長城は、同じ場所へ二千年以上にわたって壁を積み重ねた建造物ではありません。時代ごとに異なる地域で造られた区間が、現在は万里の長城という大きな名称でまとめられています。

観光写真で見る長城の多くは明代のもの

レンガや切石を使った整った長城は、主に明(みん)の時代に建設・改修された区間です。

明は1368年から1644年まで続いた王朝で、北方への備えとして長城の大規模な整備を進めました。監視塔や兵士の駐屯施設も設けられ、各地の防御設備が連携するように運用されていました。

一方、秦や漢の時代に造られた古い区間では、土を層状に重ねて突き固める方法が多く使われています。

始皇帝の時代から、観光地で見るようなレンガ造りの壁がそのまま残っていると考えると、年代が大きくずれてしまいます。現在の長城には、異なる時代の建設技術が重なっているのです。


万里の長城はなぜ造られた?

長城を築いた大きな目的は、北方からの軍事的な侵入に備えることでした。

壁があると、馬や大人数の兵が自由に通過しにくくなります。進める場所を限定できれば、守る側は敵が来る方向を予測しやすくなり、兵士を集める時間も得られます。

ただし、長城だけで侵入を完全に止められたわけではありません。壁を越えられた例や、関所を突破された例もあります。

壁そのものに加え、兵士、砦、監視塔、連絡手段を組み合わせることで、広い国境地帯を守ろうとしていました。

のろし台で遠くへ危険を知らせた

長城に設けられたのろし台や監視塔は、周辺の異変を遠くへ伝えるためにも使われました。

敵の接近を見つけると、煙や火などの信号を近くの施設へ送ります。さらに次の施設へ合図をつなぐことで、人が長距離を移動するより早く、離れた守備隊へ警戒を促せました。

使われる信号や伝え方は、時代や地域によって異なります。それでも、監視と情報伝達は長城を機能させるための重要な仕組みでした。

長城は巨大な障害物であると同時に、離れた軍事拠点をつなぐ連絡網でもあったのです。

関所では人や物資の移動も管理した

長城は、外部との移動をすべて遮断するための壁ではありません。軍事上重要な通路には関所が設けられ、人や物資が通る場所を限定していました。

関所は周辺を守るだけでなく、通行する人や荷物を確認する施設としても使われました。通路を監視することで、国境地帯を移動する人々や物資の流れを把握しやすくなります。

万里の長城は外側と内側を完全に切り離す線ではなく、軍事上重要な道を押さえる境界施設でもありました。


万里の長城は誰が造った?

長城の建設には、長い歴史の中で多くの人々が関わりました。担い手の立場や働き方は、王朝や地域によって異なります。

秦代には、兵士のほか、政府から労働を課された民衆や、刑罰を受けた人々も建設へ動員されました。土や石を運ぶ人、地面を固める人、壁を築く人など、大規模な工事には数多くの働き手が必要でした。

「長城は奴隷だけで造られた」と説明されることもありますが、兵士、罪人、徭役として動員された民衆など、時代によって異なる立場の人々が建設に関わっていました。担い手を一つの立場にまとめることはできません。

遠隔地での土木作業や物資の運搬は、大きな負担を伴ったと考えられます。ただし、建設に関わった人数や亡くなった人の数については、長城全体を示す確かな数字が残っていません。

根拠がはっきりしない大きな数字を、長城全体の犠牲者数として扱うのは適切ではありません。

現代のような雇用や賃金制度ではなかった

秦代の建設に参加した人々の多くは、現代の建設作業員のように、自分で勤務先を選び、雇用契約を結んだ人たちではありませんでした。

当時は、国が民衆に一定期間の労働を課す徭役(ようえき)や軍務、刑罰としての労働が行われています。このような働き方では、作業時間や契約内容に応じた賃金を受け取ることが前提ではありません。

少なくとも秦代には、兵士の軍務、民衆の徭役、罪人の労働など、現代の雇用契約とは異なる形で建設に参加した人々がいました。

ただし、長城は二千年以上にわたって建設と修復が続けられています。すべての時代の待遇や報酬を、同じ制度として説明できるほど詳しい記録が残っているわけではありません。

建設者全員が無給だった、あるいは全員が同じ待遇だったと考えるのではなく、王朝や立場によって働き方が違っていたと見る必要があります。


使われた材料は場所によって違う

万里の長城は、すべての区間が石やレンガで造られているわけではありません。

古い長城の多くでは、土を何層にも重ねて突き固める版築(はんちく)が使われました。石が手に入りやすい山岳部では現地の石を利用し、明代に整備された重要な区間ではレンガや切石も多く使われています。

西部の乾燥地帯では、土や砂と植物の茎などを重ね、壁を補強した場所もあります。遠方から大量の材料を運ぶのは難しかったため、それぞれの土地で集めやすい素材が選ばれました。

材料が異なれば、残り方も変わります。石やレンガの区間は形を確認しやすい一方、土で造られた古い区間は長年の風雨で削られ、周囲の地面と見分けにくくなっている場所もあります。

観光地で見る整ったレンガ造りの姿は、万里の長城が持つ多様な姿の一部です。


Q&A

万里の長城の長さは何キロメートルですか?

歴代の王朝が築いた壁や枝分かれした区間、関所などの関連施設を含めると、総延長は2万キロメートルを超えます。一本の壁が、その距離だけ途切れず続いているという意味ではありません。

万里の長城は始皇帝が造ったのですか?

始皇帝は、それ以前に築かれていた防壁を利用して北方の守りを広げました。長城全体を一代で完成させたのではなく、その後も複数の王朝が建設や修復を続けました。観光地でよく見る区間の多くは明代のものです。

建設した人は賃金を受け取っていたのですか?

時代や立場によって異なります。秦代には、兵士の軍務、民衆に課された徭役、罪人の労働など、現代的な賃金を前提としない働き方がありました。長城全体の待遇を一つの制度としてまとめることはできません。

万里の長城は敵の侵入を完全に防げましたか?

侵入を完全に防ぐ施設ではなく、敵の移動を難しくして進路を限定するために使われました。監視や情報伝達によって、守る側が対応する時間を得る機能もありました。

万里の長城は宇宙から見えますか?

月から肉眼で見ることはできません。地球を回る低い軌道からでも、肉眼で見分けるのは難しいと米航空宇宙局(NASA)は説明しています。長城は非常に長いものの幅が狭く、周囲の地面と色が似ているためです。


まとめ

万里の長城は、一人の皇帝が一度に完成させた一本の壁ではありません。複数の王朝が長い年月をかけて築いた壁、砦、関所、のろし台などからなる広大な防衛網です。

始皇帝は既存の防壁を利用して北方の守りを広げましたが、観光地でよく見る石やレンガの区間の多くは明代に建設・改修されました。地域によって使われた材料も異なり、土、石、レンガ、植物などが利用されています。

建設には兵士、罪人、徭役として動員された民衆など、異なる立場の人々が関わりました。特に秦代には、現代の雇用や賃金制度とは異なる形で、軍務や国から課された労働として参加した人々もいました。

長城は敵の移動を妨げるだけでなく、危険を知らせ、人や物資の移動を監視する機能も備えていました。一本の巨大建築という印象から離れると、時代や地域に応じて姿を変えてきた歴史が見えてきます。

参考情報

  • UNESCO World Heritage Centre「The Great Wall」
  • The Metropolitan Museum of Art「Qin Dynasty(221–206 B.C.)」
  • Ma, Tsang Wing(2021)
    “Categorizing Laborers: Glimpses of Qin Management of Human Resources from an Administrative Document from Liye, Hunan Province”
  • NASA「Great Wall」

この記事を書いた人

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