甲子園の土を持ち帰るのは、その場所でプレーした証や、高校野球に打ち込んだ時間を形に残すためです。出場記念として保管する選手もいれば、母校や家族への思いを込めて持ち帰る選手もいます。
夏の高校野球では、試合を終えた選手がグラウンドにしゃがみ、土を袋へ詰める姿が映し出されます。現在では甲子園を象徴する光景の一つですが、誰が最初に始めたのかは明確に決まっていません。
甲子園の土は出場の証や思い出として持ち帰られる
夏の甲子園に出場できるのは、各地の大会を勝ち抜いた代表校です。選手にとって甲子園のグラウンドは、長い練習や地区大会を経て、ようやくたどり着いた場所でもあります。
そのグラウンドの土を持ち帰れば、甲子園に立った記憶を手元へ残せます。とくに最後の試合を終えた3年生にとっては、高校野球生活の区切りと重なることもあるでしょう。
ただし、すべての選手が同じ理由で土を集めているわけではありません。甲子園へ出場した記念として残す人もいれば、仲間と過ごした時間を思い出す品として大切にする人もいます。
土を母校へ持ち帰ったり、家族へ見せたりする場合もあります。一握りの土に込められる意味は、選手やチームによって異なります。
なぜボールではなく土が記念になるのか
ユニフォームやグラブは、甲子園へ来る前から使ってきた道具です。試合球などの用具も、選手が自由に持ち帰れるものとは限りません。
一方、土は選手が走り、守り、滑り込んだグラウンドそのものの一部です。試合中に足元へあったものだからこそ、その日の緊張や歓声、仲間と過ごした時間と結びつきます。
写真や映像にも試合の記録は残りますが、土には手に取って保管できる特徴があります。甲子園の土が記念として大切にされる背景には、その場所で実際にプレーした経験があります。
最初に甲子園の土を持ち帰ったのは誰?
甲子園の土を持ち帰る風習の始まりには、いくつかの説があります。
よく知られているのが、1937年の川上哲治と1949年の福嶋一雄です。阪神甲子園球場は川上を最初とする説を紹介していますが、野球殿堂博物館では福嶋を最初に持ち帰った球児としています。
記録や証言によって紹介される人物が異なるため、現在も一人に断定できる状態ではありません。
1937年の川上哲治説
川上哲治は熊本工業の投手として、1937年夏の大会に出場しました。チームは決勝まで進みましたが、中京商業に敗れて準優勝となります。
川上は後に大会史へ寄せた文章で、記念として甲子園の土を袋へ入れて持ち帰り、母校のマウンドへまいたと記しています。この話が広く知られたことで、川上が風習を始めた人物として紹介されるようになりました。
ただし、川上本人は後年、自分が最初ではないと否定したと伝えられています。川上より前にも、似た行動をした選手がいた可能性は残されています。
1946年には西宮球場の土を持ち帰った記録もある
1946年夏の大会では、東京高等師範学校附属中学校、現在の筑波大学附属高校の選手が、自分の守備位置の土を持ち帰ったという記録があります。
当時、甲子園球場は連合国軍に接収されていたため、大会は西宮球場で開催されました。選手が持ち帰ったのは甲子園球場の土ではありませんが、高校球児が大会会場の土を記念にした早い例として知られています。
この記録があることからも、グラウンドの土を持ち帰る行動が、特定の一人だけから始まったとは言い切れません。
1949年の福嶋一雄説
もう一人の有力な人物が、小倉のエースとして活躍した福嶋一雄です。
福嶋は1947年と1948年の夏に連覇へ貢献しました。3連覇を目指した1949年は、準々決勝で倉敷工業に敗れています。
試合後、福嶋は無意識のまま一握りの土をポケットへ入れ、持ち帰ったと伝えられています。野球殿堂博物館は、この出来事をもとに福嶋を最初に甲子園の土を持ち帰った球児として紹介しています。
川上の記録は1937年、福嶋の記録は1949年です。年代だけを見れば川上が先ですが、川上本人の証言や1946年の関連例もあるため、風習の始まりには複数の見方があります。
土を集める姿はどのように広まった?
川上哲治や福嶋一雄の逸話では、現在のような風習を広める目的で土を持ち帰ったとはされていません。当初は、試合を終えた選手が個人的な記念として土を持ち帰った例でした。
その後、似た行動をする選手が増え、新聞やテレビでも土を集める場面が紹介されるようになります。1960年代後半には、敗れた選手が土を持ち帰る姿が、甲子園で見られる光景として報じられていました。
テレビ中継が広く見られるようになると、試合後に土を集める姿も全国へ伝わります。こうして、甲子園の土は高校野球を象徴するものの一つとして知られるようになりました。
敗れた選手だけが土を持ち帰ると思われることもありますが、優勝した選手が大会の記念として集める例もあります。
2018年夏の決勝後には、準優勝した金足農業の吉田輝星と、優勝した大阪桐蔭の柿木蓮が並んでマウンドの土を集めました。土を持ち帰る行動は、敗戦した選手だけに限られたものではありません。
1958年に持ち帰れなかった首里高校の土
甲子園の土にまつわる出来事のなかでも、1958年の首里高校の話はよく知られています。
この年、首里高校は沖縄代表として夏の甲子園へ初出場しました。当時の沖縄は米国統治下にあり、日本本土との間を移動する際には植物防疫上の制限が設けられていました。
選手が記念に持ち帰ろうとした甲子園の土は沖縄へ持ち込めず、海へ捨てられたと伝えられています。
事情を知った日本航空の客室乗務員らは、土の代わりに甲子園周辺の小石を集め、首里高校へ贈りました。その小石は、現在も校内にある「友愛の碑」に埋め込まれています。
一時中断を経て土集めが再開された
新型コロナウイルスの感染拡大後は、選手自身が試合後にグラウンドの土を集めない時期もありました。
2020年夏には、阪神甲子園球場と阪神タイガースが用意した土入りのキーホルダーが、高校3年生の野球部員へ贈られています。
選手による土の持ち帰りは、2023年夏の第105回全国高校野球選手権記念大会で4年ぶりに再開されました。以降は、試合後に選手が土を集める従来の光景が再び見られています。
甲子園の土は各地の黒土と砂を混ぜている
選手が持ち帰る甲子園の土は、球場周辺で採れた土だけで作られているわけではありません。複数の地域から運ばれた黒土と砂を混ぜ、グラウンドに適した状態へ調整しています。
阪神甲子園球場の公式情報では、黒土の産地として岡山県日本原、三重県鈴鹿市、鹿児島県鹿屋、鳥取県大山などが挙げられています。使用する土の産地は、毎年同じとは限りません。
砂も時代によって産地が変わっており、これまでに甲子園浜、瀬戸内海、中国福建省、京都府城陽などの砂が使われてきました。
土を持ち帰る選手にとっては思い出の品ですが、グラウンドでは選手がプレーしやすい状態を保つために、細かな調整が行われています。
春と夏では黒土と砂の割合が変わる
黒土と砂の割合は、一年を通して同じではありません。
春は雨が多いため、水はけを考えて砂を多めにします。夏は白いボールを見やすくするため、春より黒土の割合を増やしています。
グラウンドの状態は天候によって変わるため、試合の合間にも整備が行われます。持ち帰られる土には、季節や試合条件に合わせてグラウンドを管理する人たちの工夫も反映されています。
Q&A
まとめ
甲子園の土を持ち帰るのは、その場所でプレーした証や、高校野球に打ち込んだ時間を残すためです。出場記念として保管する人もいれば、家族や母校へ持ち帰る人もいます。
風習の始まりには、1937年の川上哲治説と1949年の福嶋一雄説があります。川上以前の可能性や1946年の関連例もあり、正確な第1号は判明していません。
甲子園の土は各地の黒土と砂を混ぜ、季節に応じて配合を変えています。選手にとっての思い出と、プレーしやすいグラウンドを保つ工夫が重なった存在です。
参考情報
- 阪神甲子園球場「よくあるご質問 甲子園球場の黒土について教えてください」
- 公益財団法人野球殿堂博物館「Newsletter 第23巻 第3号」
- 公益財団法人野球殿堂博物館「福嶋一雄」
- 内閣府「沖縄県民を熱狂させる野球」
- 阪神タイガース「『甲子園の土』キーホルダーの贈呈について」
